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起業支援の現場から
公開日:2022.08.12
今や、見慣れた光景となった。
起業準備のために開かれたラウンジスペースでは、PCを開いた若者たちが、かつてより両隣を空けて座っている。一席ごとに設置されたアクリルパネル越しに、いくつかのグループは熱心に議論を繰り広げているようだ。
相談ブースを覗くと、ヘッドセットを装着した相談員が座っている。モニターの向こうで、スライド資料を共有した相談者が何やら話している様子がわかる。
以前は100名近くを収容していたセミナールームの扉には「立入禁止」の案内板。壇上には講師とスタッフの姿。Webカメラ越しに講師は講演している。
施設の窓からは日本有数のオフィス街の様子が見える。通行人は初夏の陽気に汗ばみながら、誰の口元もマスクで覆われていた。
ここは起業や独立を考え始めた人たちのサポートをおこなう、いわゆる「起業支援施設」だ。筆者は東京都内の起業支援施設で、2020年から2年間、コミュニティマネージャーとして起業準備者の支援に携わってきた。
この2年間、世界は新型コロナウィルスという新たな脅威に晒されてきた。筆者の勤務する起業支援施設も、一時は閉館。活気のあったラウンジスペースは静まり、予定されていたイベントやセミナーも軒並み中止した。
その後、新たな生活様式が広まるにつれ、世間のニーズに応えるように施設サービスも変化していった。接触リスクを考慮した施設運営、相談やイベントのオンライン化などにより、施設利用者は回復傾向にある。冒頭に記した施設の様子は、ウィズコロナ時代と呼ばれる現在の風景だ。
変わったのは、施設の提供サービスだけではない。この施設を利用する起業準備者たちにも、社会動向を反映した変化が見て取れる。起業支援施設における筆者の定点観測から、一例ではあるがトレンドの一端を示すことができると考えている。
また、その上でわれわれ起業支援に携わる人間に求められる役割についても言及した。ウィズコロナ時代の現代、「今、誰が起業したいのか?」という問いに正面から向き合いたい。
新型コロナウィルスの感染拡大は、「接触」「集権」を中心とする社会に警鐘を鳴らした。
ブロックチェーンなどの技術に支えられる「Web3」の概念がこの時代に広まったのは、感染症の蔓延と無関係とは言えないだろう。ITやベンチャーのニュースサイトで、Web3やメタバースに関する最新情報を聞かない日はない。次世代の分散型インターネットは、起業準備者にとっても新たな起業機会として大きな注目を集めている。
施設を見ていると、主に若い世代を中心にWeb3やメタバースへの関心が高まっていることがわかる。彼らの多くはデジタルネイティブなZ世代だ。その熱心さの由来として、社会を席巻するバズワードに対して、勉強不足で周りに置いていかれたくないという危機感は互いにあるだろう。
ただし、一人ひとりに話を聞いてみると、彼らは決してトレンドに振り回されているばかりではない。自分の成し遂げたい事業を踏まえた上で、Web3やメタバースといった最新技術と真摯に向き合っているようだ。
マーケティング会社出身のA氏(20代・女性)の関心事は精神障がい者のアート活動だ。アウトサイダー・アートやアール・ブリュットと呼ばれる彼らの作品に対して、彼女はその芸術としての価値を高く評価している。
ただし、社会はそれらの作品を正しく評価し、作者に適正な対価を還元していない、というのが彼女の考えだ。
現在、A氏は精神障がい者のアート作品をNFT化して販売する事業の立ち上げ準備を行っている。彼らの作品をNFTアートとすることで、世界中で取引可能にすることが第一の目的。そして、二次転売で作品が人の手を渡り歩いても、製作者である精神障がい者たちに利益が還元され続ける環境を作ることが第2の目的だ。
A氏は独学でNFTの勉強を続けながら、取り組みに賛同する医療法人や障がい者支援施設とのコネクションを増やしている。「目指しているのはアート作品のフェアトレードです」と語るA氏の起業活動に、NFTの技術は正しく適合するだろう。
起業準備者は熱心に勉強する。自身がエンジニアでなかったり、技術的なスキルを持っていないからといって、彼らがWeb3やメタバースといった最新テクノロジーに無知でも良いという言い訳にはならないからだ。
われわれ起業支援に携わる人間も、最低限の知識や最新ニュースはキャッチする。起業準備者と同じ言語で語れなければ、そもそも信頼さえもしてもらえない。起業前に一番はじめに相談を受ける者として、「この人に話しても大丈夫だ」という信頼はなくてはならないと考える。
起業や実業は、単なる自己利益の追求にとどまるものではなく、経済活動を通じて他者へのケアを実践し、公共性や社会における連帯を担うものとならなければなりません。
2022年、東京大学の入学式で総長の藤井輝夫氏が語ったこの言葉は、この時代の価値観を反映するものとして大いに注目を集めた。起業家教育から大学発ベンチャーに続く式辞は、起業のナラティブの結びに「ケア」へと着地した。
起業とケアは、たしかに密接に紐付いている。藤井氏の言及したとおり、「他者が何を望んでいるかを気づく、知る、それに応じて行動するという起業やビジネスの本質」は、まさしく社会のケア活動と言えるだろう。感染症の拡大や隣国間の軍事侵攻など、これまでの生活が脅かされる自体が発生する時代において、ケアとしての起業のあり方が一層求められる。
筆者の勤める起業支援施設にも、他者のケアを主軸とした事業アイディアを検討する相談者が後を絶たない。
B氏(30代・女性)は都市部で疲弊する若者たちのため、地方で心身を休める宿泊型イベントを企画している。数日間住み慣れた土地を離れて、仕事や人間関係で疲れた心や体を癒す「リトリート」のプログラムは、社会に出て働き始めたばかりの20〜30代に好評とのこと。
また、現在は短期プログラムだけでなく、いつでも訪れることのできる常設の宿としてゲストハウスの立ち上げ準備中だ。
B氏は「事業を通して、モヤモヤしている人に対して日々を見つめ直す余白を提供してあげられたら」と話す。
本項では起業とケアの関係について述べた。さて、起業家がビジネスを通じてケアしたいと考える対象は一体誰だろうか。
筆者の経験によると、往々にして、起業家および起業準備者自身が「その事業でケアされる人」であることが多い。彼らが起業活動で救いたいのは、他ならぬ彼ら自身という構造だ。そういった場合、事業のペルソナとして本人性の高い――独りよがりで独断的な対象を設定することがある。
彼らの起業意欲は尊重しながら、「その課題を抱えている人はどれくらいいるか?」「そのソリューションで対象の課題に正しくリーチできるか?」と客観的な導きを行うことが起業支援事業者の大切な役割だと考える。
また、起業は大きなライフイベントであるため、起業支援が人生相談になることもままある。起業活動の前に、ご自身の状況の整理を促すこともある。
いずれにせよ、第三者の視点で、曇りなき眼で起業家および起業準備者と向き合っていくべきだろう。
感染症の拡大によって、人々のつながりにかつてない隔たりが生じた。
ウィズコロナと呼ばれる現代、身近な社会である「地域のコミュニティ」が再評価されている。リモートワークや在宅ワークが普及し、広い部屋や自然環境を求めて郊外へ移住する動きが活発になった。
移動を伴う経済活動が長く低迷したことにより、自宅での「おうち時間」を豊かにする購買活動や、地域の飲食店等に目を向ける動きも盛んだ。
こうした社会の変化は、起業を志す人々の関心にも影響を与えている。
起業支援施設には、暮らしを中心とする経済圏に切り込む起業準備者が目立つようになった。彼らは、事業の力で地域コミュニティの魅力化を図ろうとしている。
金融業界に長く勤めたC氏(30代・男性)は、生まれも育ちも足立区の北千住だ。付き合いの長い友人たちもみな近隣に暮らしており、下町の雰囲気が残る飲食店街には馴染みの店も多いという。
新型コロナウィルスの感染拡大を受けて、賑やかだった街は一変した。活気を失った商店街。地元の友人たちとの集まりも激変した。「有事の時こそ、地域の人たちで寄り集まるべきだと感じた」とC氏は熱を帯びた口調で語る。
現在彼は、地域の人が集まるコミュニティ性の高い飲食店を準備中だ。営業時間外の飲食店を間借りしながら、週末限定で国産クラフトビールを中心としたイベント出店を実施している。反響は上々らしく、出店時には必ず訪れる常連も生まれているという。
条件の合う物件が見つかり次第、店舗を持ちたいとC氏は話した。
地域に根ざした事業は、綿密な事前準備が必須だ。しかし、現在を「日常」と捉えるか「非日常」と捉えるかについてはまだ議論の余地があるだろう。C氏も間借り営業でテストマーケティングを行っているが、その結果をどう受け止めるかは判断の難しいところだ。
ひとつ言えるのは、何があっても感染症の蔓延以前の世界には戻らないということだろう。われわれ起業支援事業者が、この点において楽観的であってはならないと強く感じている。
ここまで、複数の起業準備者の事例を紹介してきた。一例ではあるが、ウィズコロナ時代の起業行動についてお伝えできたのではないかと思う。
では、われわれ起業支援の側に立つ人間に、今なにが求められているのだろうか。ご時世は変わっているが、求められる支援は変わらないと筆者は考える。起業家に寄り添うこと、起業家の熱意やビジョンに共感することだ。「そのアイディア、いいね!」と後押しすることの重要性については、社会の変化に関わらず疑いの余地がない。
われわれスタートアップの側に寄り添う人間は、そのスタンスを忘れてはならないと思う。